笑い飯の結成経緯は?M-1王者までの道のりや芸人界で慕われている理由について調査

Comedy

はじめに

お笑い界には、独自のスタイルを確立し伝説となる芸人がいます。2000年7月に結成された笑い飯は、まさにその一組と言えるでしょう。ボケとツッコミが入れ替わる「Wボケ」漫才というスタイルを完成させ、M-1グランプリでは9年連続決勝進出という偉業を成し遂げました。

NON STYLEの石田明が「単純に面白いことが重要である」と評したように、笑い飯は複雑な技巧に頼ることなく、純粋な面白さを追求し続けてきました。その姿勢は、多くの後輩芸人たちの道標となっています。

ボケとツッコミという固定概念を覆した笑い飯の革新性に、私は衝撃を受けました。伝統を重んじる漫才界で、新しい表現方法を確立した彼らの功績は計り知れないものがあります。

出会いからコンビ結成へ

笑い飯の結成は、偶然の産物とも言えます。哲夫と西田幸治は、それぞれ「スキップ」と「たちくらみ」というコンビで活動していましたが、両者とも個性が強すぎて相方との関係が上手くいかず、解散を経験しています。ちなみに、哲夫は1996年にNSCの面接を受けましたが、落第するという経歴を持っています。

2000年7月、運命的な出会いを果たした二人は、共通のライブイベント名だった「笑い飯」をそのままコンビ名に採用。従来の漫才の常識を覆す「Wボケ」スタイルは、二人がともにボケ担当だった過去があったからこそ生まれた独創的なものでした。

翌2001年、オーディションを経て吉本興業に所属。ここから彼らの本格的な芸人人生が始まります。哲夫は「昔の漫才を見ると両方ともボケているのが沢山あった」という認識から、温故知新の精神で現在のスタイルを築き上げていったと語っています。

失敗や挫折を経験しながらも、それを糧に独自のスタイルを確立していった二人の姿勢に感銘を受けます。時には、回り道こそが新しい発見への近道なのかもしれません。

M-1への挑戦、揺るぎない決意と情熱

2001年にスタートしたM-1グランプリ。笑い飯は2002年から参戦を開始します。当時、彼らは麒麟や千鳥と共にBaseよしもとの若手の中心的存在として知られていました。「この中から誰かM-1を獲ろう」という共通の目標は、彼らを強く結びつける絆となりました。

特筆すべきは、2002年の初参加から驚異の9年連続決勝進出を果たしたことです。この快挙により、「ミスターM-1」「M-1の申し子」という異名を獲得。2004年の時点で、笑い飯は「優勝しても出場し続けたい」とM-1への強い思い入れを表明しており、この大会が彼らにとって特別な存在であることを示していました。

M-1への情熱は、単なる優勝争いを超えた芸人魂の表れだったと感じます。毎年挑戦し続ける姿勢は、多くの人々に勇気と感動を与えたはずです。

悲願の優勝まで9年間の軌跡

M-1グランプリでの笑い飯の道のりは、まさに劇的なものでした。2002年の初参加では、無名ながら見事3位に食い込む活躍を見せます。2003年には「奈良県立歴史民俗博物館」のネタで、史上初めて審査員全員から90点以上という驚異的な評価を獲得。このネタは後に「伝説のネタ」と呼ばれることになります。

しかし、優勝への道のりは決して平坦ではありませんでした。2004年には5位、その後も決勝進出を果たしながらも優勝を逃し続けます。2008年には、島田紳助から「もう優勝は難しいのでは」と評されるほどでした。

転機となったのは2009年。「鳥人」のネタで会場を沸かせ、審査員の島田紳助からM-1史上初となる100点満点を獲得します。しかし、この年も優勝は逃してしまいます。

そして迎えた2010年。「サンタウロス」のネタで668点という高得点を記録し、ついに悲願の優勝を手にしました。9年連続9回目の決勝進出での優勝は、まさに執念の結晶でした。

9年間という長い挑戦の末についに掴んだ優勝は、諦めることなく夢を追い続けることの大切さを教えてくれます。優勝までの道のりそのものが、一つの芸術作品のように美しいと感じます。

王者としての活動~地域に根差した活動へ

M-1優勝後、東京進出の話もありましたが、笑い飯は吉本興業からの「関西で漫才を盛り上げてくれ」という要請を受け、地元・関西での活動を選択します。この決断は、後の関西漫才界に大きな影響を与えることになります。

哲夫は2014年に小中学生向けの激安学習塾「寺子屋こやや」を開校し、教育を通じた社会貢献活動を始めます。さらに、農業への取り組みや、個人で打ち上げ花火を奉納するなど、芸人の枠を超えた多彩な活動を展開しています。

漫才への情熱は衰えることなく、2024年には第59回上方漫才大賞で大賞を受賞。20年以上のキャリアを経てなお、その実力は進化し続けています。

優勝後も地域に根差した活動を選択した笑い飯の姿勢には、深い敬意を感じます。芸人としての活動だけでなく、教育や地域貢献にも力を入れる姿は、まさに「令和の漫才師」の理想形ではないでしょうか。

人望と実力を兼ね備えた存在

笑い飯が後輩芸人から絶大な支持を得ている背景には、いくつかの要因があります。まず、彼らの人柄の良さです。千鳥のノブは「師匠のような存在」と語り、彼らから多大な影響を受けたことを公言しています。

また、M-1グランプリでの長年の経験から得た教訓を、惜しみなく後輩たちに伝授する姿勢も、信頼を集める要因となっています。特に、baseよしもとでの活動を通じて、「こういうのが本当に面白いんだ」という空気を作り出し、多くの若手芸人の成長を支援してきました。

さらに、哲夫が経営する学習塾では、若手芸人たちが講師として子供たちに教える機会を提供。このような取り組みは、後輩芸人たちに新たな経験と成長の場を与えています。

笑い飯の後輩への接し方には、純粋な愛情を感じます。自身の経験を惜しみなく共有し、若手の成長を支援する姿勢は、まさに芸人界の良心と言えるでしょう。

さいごに

笑い飯の功績は、単なる優勝歴や受賞歴だけでは測れません。彼らは「Wボケ」という新しい漫才スタイルを確立し、後世に大きな影響を与えました。また、9年連続でM-1決勝進出を果たした「ミスターM-1」としての姿は、諦めない心の象徴として多くの人々に希望を与えています。

現在も関西を拠点に精力的に活動を続け、漫才の伝統を守りながら新しい笑いの創造に挑戦し続ける彼らの姿は、まさに令和の漫才師の模範と言えるでしょう。

20年以上の芸歴を重ねながら、なお進化を続ける笑い飯。彼らが漫才界に与えた影響は、これからも長く語り継がれていくことでしょう。

関連リンク

コメント